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朝5時に起きて、執着と愛について考えた結果、星になろうと思った話

ふと目が覚めた。時計は朝4時54分だった。不思議と眠気も感じない。だから、起きることにした。そして、朝早くから自分のことを知ろうと、思考を巡らせてみたいと思い、キーボードを叩いている。

特に「これについて」というテーマがあるわけではないので、書き終えてからタイトルを付ける。だから、どんな記事になるかは分からないけれど、たまにはこういう書き方も自由で悪くないだろう。では、行く。

※この記事は2021年3月27日に書いています。

雑談

昨夜は、顧問先と食事に行った。懇意にしていただいている方で、ボクも色々とお手伝いをしているんだけど、4月からその会社でYoutubeを始めることになり、動画撮影から編集、管理をボクがサポートする。その事前リサーチで食事に行ったのだ。内容はまだ詳しくは言えない。

楽しそうなことというのは、ふとしたキッカケから始まるものだ。Youtubeを提案したのは、もちろんボクだ。それは、顧問先の今後の展開を考えれば、必須だったし、先方も快諾してくれた。自分のYoutubeチャンネルでは動画を作らず、生配信ばかりなのだけど、動画作成自体は嫌いじゃない。仕事になるなら、全然苦なくできる。これはボクにとっても成長のためにも、実績のためにも有り難い話だ。

食事から帰ると、実家のカフェで23時くらいまで、色々と話しをし、楽しく過ごしていた。その時間帯になると、最近朝7時ころに目覚めるボクは、お酒も入っていたから、もう眠気を感じていたし、先方も眠そうだったので、そこで解散。

その後、部屋に戻ったボクは、ブログを1記事(昨日4月3日公開された記事)を書いて、布団に入った。

記事の執筆から公開まで日が空くのはどうかと思っているんだけれど、日々大量に書けるわけでもないので、書けるときに書いて、1日1記事を公開するというルールでやっている。この先もどんどん未来に公開される記事を書くのだろう。だけど、公開時点のボクは、結構変化していると思うから、そこだけが何か引っかかる。だから、いずれは1日何記事も公開することにするかも知れない。

さて、ブログの裏事情は置いといて、布団に入って眠るまで、執着と愛について考えていた。

執着と愛の関係性

執着していると、そのことばかりを考えてしまう。そして、不安を感じる。ついこの間まで、この不安がたまらなく嫌だった。心がざわざわしていた。だけど、執着からの不安なんて、勝手な想像でしかなく、無意味なことだ。その時も、自分の執着に気付いたので、ざわざわする前に思い直した。そうすることで、心が乱れず、その後囚われることもなかった。

思い直すというのは、執着していることを愛していると考え直すことをしたのだ。愛していれば、自由を願い、幸せを願い、喜びを願うようになる。これは、自分に対しても誰かに対してもそう。だから、その視点で考えることで、執着を愛で上書きする。最近は、これを繰り返している。

愛することは、相手を信頼することだから、そこに不安は生まれない。執着は、相手を信頼できていないから、不安が生まれる。執着と愛は、そんな関係性なのだと思う。

ヨガの勉強のお陰もあってか、こうして自分の弱さに気付くことが多くなった。愛するということに関しても、これまでボクが思ってきた愛とは異なる視点を持ち出し始めた。いや、正確には、男女間の愛も、親子間の愛のように無償の愛であるべきだと知った。

何も求めない。ただ愛するだけ。相手が存在してくれていることに感謝し、そのことを慈しみ、愛をもって接すれば、ただそれだけでよい。やさしい眼差しで子どもを見守る母親の愛、この愛を持てば、男女間はもちろん、親子間でも、対人関係はすべて見方が変わる。

物事への執着もなくなっていく。不思議なことだけど、最近、三大欲求が減った。食べることも、寝ることも、異性を求めることも、強く思わなくなった。

もともと朝は食べなくなってたんだけど、最近はお昼を食べても調子が悪くなる。だから、お昼は食べないことにした。そして、寝ることも(これは四十手前なので加齢もあるのか)何時に寝ても今日のように朝早めの時間に目が覚めるし、睡眠時間が短くても不足を感じない。まぁ、今日は昼寝する可能性はあるけれど(笑)

そして、異性を求める点。これは、フラれたこともあるからかも知れないけれど、そこからずっと学んでいることもあって、先ほどのような愛を知り、無償の愛を持ち始めると、肉体的に愛されることを求めることより、精神的に愛されていると感じられれば、それで良いと感じられるようになってきた。

まだ、執着を捨てきれていないけど、そう日数もかからず、もしかしたら公開日には、ほとんど捨てきっているかも知れない。もちろん、愛すること自体もまだまだだから、もっと自分を知り、エゴに気付き、エゴ捨てていく行為を繰り返さなくてはいけないが、自分が煩悩の塊だったことには驚くばかりだ。

なぜ、ボクは成長と変容を求めたのか?

ボクは別に聖人になりたいわけでも、悟りたいわけでもない。

ただ、自分の小ささに嫌気がさしただけだ。気付かずに大切な女性を傷付けたこと、それがボクにとっては信じられないくらいの衝撃だったのだ。そんな自分が嫌になったから、変わりたいと思った。最初は、変わることで相手に認めてもらいたかった。でも、認めてもらいたいは、欲だ。だから、認めてもらう必要はないと知った。

ボク自身が、ただ成長すればいい、ただ変容すればいい、そして、今でも先でも変わらずに愛しさえしていれば、さらにその愛を本当の愛に昇華していければ、ただそれでよいのだ。認めてもらいたいと願わなくても、彼女は見てくれているだろうし、感じてくれるだろう。それで良い。おっと、もしかしたら、このブログも読まれているのかも知れない・・・

また、その過程で彼女が別の誰かを好きになっても、それを受け入れられるようにもなるだろう。人は自分の幸せを自分で見つけ、取捨選択していくのだから、一度フラれたということは、そういうことだ。だから、そのことで相手を責めることもないし、ボクを責めることもない。後悔はあったけれど、その分、ボクは良い方向へと変われた。

恋人ではなくとも大切な女性であることに変わりはない。ただ、その想いがあるだけでいい。強がりのように聞こえるだろうけど、強がっているわけじゃない。執着を捨てる努力をし、愛を知ろうとしているから、スッと入ってくるようになった。彼女が「今」を幸せで楽しく健やかに生きていることが、ボクにとっても幸せだと考えられるようになってきた。

終わりに

まぁ、そうは言っても、ボクはまた告白する。

かつて、霊媒師から祖父の言葉として「女は星の数ほどいる」と言われたことがあった。事実そうだ。だけど、それなら、ボクは一番好きな星に手を伸ばす。一番輝いて見える星の近くに行こうとする。その星に手が届くまで、タパスをボクの信念にする。

きっと、あの言葉には続きがあって、それはきっとこうだ。

「女は星の数ほどいるから、お前が一番キレイやと思う星に手を伸ばせ」

祖父の言葉

ボクが思いを寄せる女性は、世界中のどの女性よりも輝いている。どの女性よりもキレイだ。その輝きが、キレイさが、美しさが、外見だけでなく、内面からもたらされているものだから、ボクは成長と変容を続ける。

そして、ボクは何度も一番好きな星に手を伸ばす。見上げるだけの星にはしない。このままで届かないなら、いずれ、ボクも星になればいい。そうすれば、きっと隣にいられるのだから、手は届く。

成長するということは、諦めなくて良いということでもある。なぜなら、ボクの成長の源動力は確固たる想いにあるのだ。この想いのために諦めないというのは執着のようだが、高みを目指すことを諦めていては、煩悩にまみれ、不幸になる。あえて困難な道を選び、前に進むことを諦めないのなら、それは挑戦と修行だ。

この繰り返し、それがボクを星にもしてくれるだろう。

朝から2時間もかけて、何を考えているんやろう。終わり。

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